「本の影に隠れた物語」は、古書堂「ビブリア」での日々を綴ったブログです。表紙の古びた本や、頁に染み込んだ人々の記憶、手にした瞬間に広がる静かな物語……。本に宿る「見えない物語」に焦点を当て、日常の中で紡がれる、知られざるエピソードをご紹介します。
本を通して過去と現在が交差する瞬間、あなたも一緒に味わってみませんか?訪れるたび、新しい物語が待っているかもしれません。古書が持つ不思議な魅力に、ぜひ耳を傾けてください。
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僕の部屋には、何かがいる。それは目に見えない。けれど、その存在は確かに感じられる。
最初にその気配に気づいたのは、一週間前の夜だった。真夜中に突然、目が覚めた。暗闇に包まれた部屋の中、誰もいないはずの空間に奇妙な冷気が漂っていた。見回しても、何も見えない。ただ、そこに「何か」がいることは確かだった。
その日から、僕の生活は少しずつ狂い始めた。視界の端で、何かが揺れるような気がしたり、知らないうちに物が動いたり、鍵をかけたはずのドアが開いていたり。いずれも些細なことだが、積み重なると無視できなくなる。けれど、姿は見えない。何も見えないのに、その「何か」は確かにそこにいる。
気味が悪くなる一方で、その存在が何かを訴えかけているようにも感じた。恐怖と不安に包まれながらも、僕は次第に、その「何か」に対して向き合うようになった。
ある夜、何も考えずに机に向かっていた時のことだ。何の風もないはずの部屋で、ふとノートがひとりでに開かれた。ゆっくりと、ページがめくれる音が響いた。
僕は驚いてノートを覗き込んだ。ページには何も書かれていないはずだった。けれど、その瞬間、黒いインクがにじみ出るようにして浮かび上がった。
「助けて」
全身が凍りつくような感覚に襲われた。心臓が早鐘のように打ち始め、冷たい汗が背中を伝った。僕は震える手でノートを閉じようとしたが、まるでノート自体が意志を持っているかのように、再びページが開かれた。
「ここにいる」
「誰が……?」
声にならない声が漏れた。僕は恐る恐るノートに目を戻す。すると、再び黒い文字がゆっくりと浮かび上がる。
「私」
背中に寒気が走った。その時、僕は確信した。見えない「何か」は、ただの気配ではない。「誰か」が、確かにこの部屋にいるのだ。
僕は意を決して、ノートに質問を書き込んだ。
「君は誰なんだ?」
少しの沈黙の後、ノートに文字が現れた。
「見えない」
僕は息を飲んだ。彼女――いや、彼女かどうかもわからない存在が、この部屋に住み着いているのか?僕はノートにさらに書き込む。
「どうしてここにいる?」
その問いに対する答えは、僕の胸をさらに締め付けた。
「姿が消えた。助けて」
その言葉が、僕の脳裏に深く刻まれた。彼女は姿が見えなくなり、何かに囚われた存在。僕にはその理由はわからなかったが、彼女は助けを求めている。
それから数日、僕は彼女に対してどうすればいいのかわからず、ただノートを通じて断片的なやり取りを続けていた。彼女の名前も知らず、何をすれば助けられるのかもわからない。
ある日、部屋の片付けをしようと思い立ち、押し入れの奥に放置していた古いダンボール箱を取り出した。埃にまみれた中身を整理していると、僕は古びた手鏡を見つけた。くもった鏡面と、銀色の縁取りが錆びついた不気味なほど古い鏡だ。
「これ、昔どこかで……」
思い出そうとした瞬間、部屋の空気が急に冷たくなった。
僕は背筋に走る寒気を感じ、ふと鏡を手に取ったまま背後を見ようとした。だが、振り返っても何も見えない。そこで、何気なく鏡を背後に向けた瞬間――
鏡に映っていたのは、はっきりとした人影だった。長い髪、白い顔、そしてどこか悲しげな瞳。鏡の中でしか見えない彼女が、そこにいた。
驚きと恐怖に襲われながらも、僕はその鏡を彼女に向け続けた。すると、彼女の姿が徐々に鮮明になっていく。輪郭がはっきりし、肌に色が戻り、透けていた体が確かなものになっていった。
そしてついに、彼女は完全に普通の姿として、僕の目の前に現れた。透明ではなく、そこには確かな存在があった。彼女は驚きながらも、自分の手を見つめ、そして僕にかすかに微笑んだ。
「戻れた……」
彼女のその言葉を聞いた瞬間、僕は安堵した。ようやく彼女を助けられた――そう思ったのも束の間、次の瞬間、僕の体に異変が起こった。
足元から徐々に、何かが消えていく感覚が広がった。まるで、僕の存在そのものが薄れていくようだった。
「な、なんだこれ……?」
恐怖が全身に走った。僕は彼女を助けただけのはずなのに、なぜ僕が――。
「待ってくれ……!」
声を振り絞るが、足元がすでに透明になっていく。彼女は驚いた顔で僕を見つめていたが、やがて何も言わずにただ静かに僕を見ているだけだった。僕が消えゆく様子を見ながらも、その瞳には何も映っていないようだった。
「どうして……僕が……」
僕の存在は徐々に消え、視界がぼやけ、全てが暗くなっていった。
僕が完全に消えた後、彼女は静かにその場に立ち尽くしていた。そして、涙が一筋、彼女の頬を伝って落ちた。
「ごめんなさい……」
彼女は静かに呟いた。僕が消えたことを理解していたのだ。僕が彼女を助けた代償として、消える運命だったことを。
彼女はしばらくの間、僕が消えた場所を見つめていた。そして、最後に「ありがとう」と囁き、静かに部屋を後にした。
僕はもうこの世界に存在しない。僕は彼女を助けるために消えた。彼女は助かったのかもしれないが、僕にはもうその行方を知る術はない。
彼女が僕を犠牲にして生き延びたのか、それとも僕が彼女を助けるために選ばれたのか、その真実はわからない。ただ一つ、彼女が「ごめんなさい」と言ったことだけが、僕の中に残り続けている。
それが意味することは、永遠に謎のままだ。
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篠川栞
古い本と向き合う日々を送っています。古書はただの紙の束ではなく、そこに込められた思いや歴史が詰まっています。わたしにとって本は、時間や空間を超えて、誰かと繋がるための大切な存在なんです。
だけど、正直に言うと…本ばかりを見ているわけではありません。時には、人と向き合うことも苦手だし、過去に囚われていることもあります。でも、だからこそ、静かに本を読み、その背後にある物語や人々の思いに寄り添うことが、わたしにとっての安心感になっています。
もし、古書やその背後に隠された物語に興味があれば、ぜひ話しかけてみてください。あなたがまだ知らない物語が、きっとそこにありますから…。